モンケは皇帝としては有能な人物であり、その卓越した指導力と峻厳、果断な施政により、オゴデイ死後から分裂傾向を見せていたモンゴル帝国の引き締めに成功している。自らの軍事的才能や政治的統率力に恃みすぎてモンゴル共同体の和をないがしろにする独断専行が多かったこと、そしてこれらの背景もあって自身の即位の反対派であるカダアンを除くチャガタイ家やオゴデイ家に対して厳しい処置をとり、晩年には実弟のクビライを使いこなせなかったことが、モンケ死後のモンゴル帝国結束を揺るがす内紛につながったのである。
また、モンケは剛毅な性格で奢侈を好まず、シャーマン信仰に篤いモンゴル人である一方、学術教養にも深い理解を示した。オゴデイの時代にモンケをはじめとする同世代の王族たちは、ウイグル系やイラン系官僚たちからペルシア語文学などをテュルク語やモンゴル語訳を通して学び、モンケ自身数ヶ国語に通じていたうえ、『集史』によるとエウクレイデスの『原論』の問題をいくつか解いたといい、ユークリッド幾何学をはじめ東西の学術文化に造詣が深かった。暦を制定するためジャマールッディーンに天文台を建設させたが、なお不十分と考えて、イランへ派遣した実弟フレグに、イスマーイール・ニザール派に監禁されていた当代最高の数学者としても名高かったナスィールッディーン・トゥースィーの保護と招聘を依頼していたと伝えられる。この招聘はモンケの死去によって実現しなかったが、ジャマールッディーンはその後も東方に留まり、クビライのもとで建設された回回司天台を任され、フレグの命令でナスィールッディーン・トゥースィーが監督したマラーゲの天文台と観測データーを盛んに交換して、やがて授時暦の編纂をみることになる。
モンケ・「カアン」 [編集]
モンケはオゴダイが採用したものの、次代のグユクが用いなかった「カアン」 Qa'an/Qaγan, Qā'ān という称号を再度復活させたと考えられている。モンケが発令し華北の少林寺などに建立されたウイグル文字モンゴル語による聖旨碑などでは「モンケ・カン」 Möngke Qan(mwnkk' q'n) 、同時代のペルシア語、アラビア語の歴史書にはグユクや祖父のチンギス・カンのようにモンケ・ハン Mūnkkā Khān とするものも見られる。しかし、モンケの宮廷を訪れフレグに扈従してイランに戻ったアター=マリク・ジュmankū qā'ān と書き、ラシードゥッディーンの『集史』でも一部 Mūnnka Khān としている箇所もあるが、基本的に Mūnkka Qā'ān を用いており、「モンケ・カアン」と呼ばれている。これらのことから、モンケも治世の途中から「カアン」の称号を用い始めたのでは無いかと考えられる。
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