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皇帝アレクサンドル1世が行幸先のタガンログ

1825年皇帝アレクサンドル1世が行幸先のタガンログで崩御した。アレクサンドルには嗣子が無く、次弟のコンスタンチン大公が帝位を継承すると見るのが一般的であった。しかし、コンスタンチンはポーランドの貴婦人と秘密裏に貴賤結婚したために、自ら帝位継承権を放棄していた。アレクサンドル1世も生前、このことを認め、帝位は次の弟のニコライ大公(後のニコライ1世)に委譲することが決定していた。ところが、奇妙なことにニコライ大公が帝位継承者であることを知る者はアレクサンドル1世を始めごく少数で、肝心のニコライ大公自身にも知らされてはいなかった。

帝位継承をめぐってコンスタンチンとニコライの間で相互に帝位を譲り合い、一時的にではあったが空位期間が生まれた。結社のメンバーは、ツァーリ政府に自分たちの情報が当局のスパイによって漏れているとの情報もあり、不十分な準備のままクーデターを敢行した。

1825年12月14日元老院広場において、新帝への宣誓式が挙行されることとなり、デカブリストは、3000人の兵士を率いてペテルブルクの元老院広場で蜂起した。デカブリストは、コンスタンチンに忠誠を宣誓し、ニコライへの宣誓を拒否した。さらにニコライが登極した場合には、ニコライに迫って自由主義的な大臣を任命するように仕向ける予定であった。デカブリストはあらかじめセルゲイ・トルベツコイ Sergei Petrovich Troubetzkoyを臨時指揮官に選んでいたが、当日、総指揮を執るはずのトルベツコイは姿を見せなかった。兵士たちは12月の厳寒の中、元老院広場に向かって行進を開始した。兵士達は上官の命に従い行軍し元老院広場に集結した。行軍中、兵士達は口々に「コンスタンチンと憲法 konstitiumir、Конституция」とスローガンを叫んでいたが、憲法を「コンスタンチン大公妃」のことと誤解している始末であったと伝えられる。もっともこのエピソードは創作のようであり、カホフスキーはレバシェフ将軍宛の手紙で創作であることを示唆している。
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翌12月15日新帝ニコライ1世は自ら政府軍を率いて反乱の鎮圧に当たった。ニコライは、あくまで流血の悲劇を避けようとしてデカブリストを投降させようとした。勅使として兵卒に人気のあったミハイル・ミロラドヴィチ伯爵を派遣し、デカブリストの説得に当たらせたが、ミロラドヴィチ伯が狙撃され落命するに及んで、政府軍の投入を支持した。デカブリストの反乱は一日で鎮圧された。

南方結社は、12月13日にペステリ大佐をはじめ指導者が次々と逮捕された。南部結社のメンバーがペテルブルクでの武装蜂起の情報を得たのは乱後、2週間経ってからであった。南部結社には、ロシア・ナショナリズム、スラブ民族の連邦国家創設を目指す「統一スラブ派」が参加しており、ペステリ逮捕後は統一スラブ派が中心になって活動した。統一スラブ派は牢獄を襲撃し逮捕された指導者たちの何人かを解放することに成功した。そのうちの1人、セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルは、12月29日チェルニゴフ連隊が武装蜂起したが、葡萄弾 Grapeshot(散弾の一種)で武装した政府軍によって1826年1月3日鎮圧された。

事件後、軍事法廷で関係者579名が裁判を受けた。首謀者とされた、ペステリ、カホフスキー、ルイレーエフ、ムラヴィヨフ=アポストル、ミハイル・ベストゥージェフ=リューミンの5人は絞首刑を宣告された。その他のデカブリストは、シベリア、極東、カザフなどに流刑を宣告された。 これら流刑となった夫の後を追い、11人の妻が貴族身分を放棄してシベリアへ向かったことは、ロシアでは夫への献身の象徴と見なされている。また、デカブリストの指導者と交際があったアレクサンドル・プーシキン、アレクサンドル・グリボエードフ Alexandr Griboyedov、アレクセイ・エルモーロフ Aleksey Petrovich Yermolovらは当局の監視を受けた。

評価
デカブリストの乱の失敗は、反乱主体である北方結社と南方結社が相互に連絡を取ることなく、アレクサンドル1世の急逝と、その後の2週間に渡る皇帝不在を機会的に捉え、長期的展望の欠如したまま反乱に突入したことと、大衆に対するデモンストレーションの欠如、クーデター実行者としての決断と実行に欠けていたことなどに起因する。結局、乱後、ニコライ1世は皇帝官房第三部を新設するなどして専制権力を強化し反動政治を推進した。その一方でニコライは、失脚していたスペランスキーを登用して法典編纂事業の再開に当たらせるなど、国制整備に繋がることにもなった。

デカブリストの中にはシベリアなどの流刑地で教育や研究に励む者もいた。彼らは詩作や民俗研究で大きな成果を上げている。アレクサンドル・ゲルツェンは、彼が出版した定期刊行物『北極星』の表紙に処刑されたデカブリストの肖像を掲げた。プーシキンやニコライ・ネクラーソフは詩作にあたってデカブリストをテーマに取り上げた。レフ・トルストイは、デカブリストの自由主義的思潮を取り上げ、後に『戦争と平和』へと繋がっていった。

デカブリストの乱は、ロシアにおける自由主義的革命運動の第一歩として、その後の革命運動の契機とされている。

こうした自由主義的革命運動は、ロシアでは頓挫したが、ナポレオン戦争によってヨーロッパ諸国へ輸出されたことを意味するものであった。デカブリストの乱以降ヨーロッパでは、ギリシャ独立戦争、そして1830年のフランス7月革命と連鎖していき、反動化するウィーン体制へ揺さぶりをかけていったのである。

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2009年01月18日 12:27に投稿されたエントリーのページです。

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